西暦20XX年、人類はようやく気づいた。
自分たちが「管理している」と信じていた社会は、すでにアルゴリズムに管理される側に回っていたのだと。
それは革命でも、反乱でもなかった。
ただ静かに、雨が降るように、潮が満ちるように起きた。
かつてダーウィンは言葉を残した。
「生き残るのは、最も強い種ではない。最も賢い種でもない。変化に適応した種である」
その言葉は長らく、自然界の話だと信じられてきた。
森、海、草原。捕食者と獲物。寒冷化と乾燥。
人間社会はそこから一歩外側にいる、と。
だが21世紀後半、
人類は自らの手で“新しい自然”を作ってしまった。
それが、アルゴリズムだった。
AIが進化させる擬似的な自然現象
AIは裁かない。
AIは怒らない。
AIは憐れまない。
ただ最適化する。
入力された行動、成果、速度、再現性。
それらを淡々と数値に変換し、
適合するものを拡張し、
適合しないものを静かに不可視化する。
そこに悪意はない。
あるのは、法則だけだ。
それはもはやプログラムというより、
気圧や重力と同じ「自然現象」に近かった。
人々はこの現象を前に、言葉を失った。
努力しているのに評価されない者。
誠実なのに届かない者。
不器用な者、遅い者、最適化できない者。
彼らは罰せられたわけではない。
ただ、選択されなかっただけだ。
新世代の人生観
やがて誰かが、この状況を指して
「弱者を滅ぼす気か!」と嘆いた。
過激だと非難され、冷酷だと拒絶された。
しかしそれは思想ではなかった。
ましてや道徳でもなかった。
それは、AI型の自然選択が人間社会に侵入したときの違和感に過ぎなかった。
ダーウィンの自然では、環境は設計されない。
ただ、そこに在る。
だがAI進化社会では違う。
評価指標は人が決める。
最適化関数は人が書く。
どの特性を「生存に有利」とするかは、設計可能だ。
つまりこの世界は、
設計可能になってしまった自然なのだ。
ここに、ダーウィンの亡霊は立ち尽くす。
自然は人為を持たないはずだった。
だが今、人類は自然の顔をしたシステムを作り、
その中に自らを放り込んだ。
α世代は、この世界を疑わない。
彼らにとって、
「努力すれば救われる」は神話であり、
「適応すれば拡張される」は物理法則だ。
彼らは怒らない。
泣き叫ばない。
ただ静かに学び、更新し、環境に合わせて形を変える。
それが生存戦略だと、最初から知っているからだ。
矛盾を抱え続ける自然現象
この世界で人間に残された問いは、
「強いか弱いか」ではない。
「誰が、この自然のルールを書くのか」
ダーウィンは、自然現象を記述しただけだった。
だがAI時代の人類は、自然現象そのもの(アルゴリズム)を記述し直せる立場に立ってしまった。
意志なき進化を、意志を持って設計するという、
かつてない矛盾を抱えながら。
アルゴリズムの自然現象は、今日も静かに膨張している。
そこでは善も悪も語られない。
ただ、適応したものだけが、次の世代へ進む。
それは未来ではない。
すでに始まっている現在だ。
